深呼吸、咄嗟が間に合うよう祈る

地震が起きた
大きい揺れだった、まだ気は抜けない。
2011.3.11、私はお子を学校へ迎えに行った。あのとき私は経験したことのない大きな揺れにどうしたら良いのかわからなかった。
二人は小学生、夫はたまたま震源地から遠い場所に出張中、新幹線が止まり帰宅は叶わず離れ離れだった。
実家は互いを避難場所にするにはあまりに距離が近く、きっと被害は同程度予想されるし、夫の実家も「地方くくり」で言えば同地方。しかし公共機関を使っても車でも1時間はかかる距離。
私一人で小学生二人を、
さらに揺れが大きければ両親も連れて避難をしなければ…と、2011年の私は焦っていた。
その晩、余震の度お子二人を守るため緊張が走り、私一人で出来る限りの想像力を巡らせ、必要なものを玄関にまとめ、眠る二人の子供を見守りつつ、私がしっかりしなくてはとシミュレートした夜だった。
翌年2012年の春、
私は希少がん患者となった。
治療をしても余命2年と思って生きてと言われた。
あの時からずっと、万が一の時は私が身を呈し子供の命を守りたいと真剣に考えているの。私の肉体を差し出すことでお子の命が守られるなら喜んで差し出したいの。
卵巣嚢腫術の入院の時、
つまり希少がんとわかる前だったけど、あの時も大きな揺れを経験した夜にそう思った。未来あるお子の命を優先したいと。
がんとわかってからは本当に切実に祈りに近い思いで願っている。
正直私の命は「いつ」終わってしまっても不思議ではない、だから私ではなく、夫に生きてほしい。そしてお子を見守ってほしい。
自然災害だから先は
わからないし見通す事なんて無理だから、今回もできる事をまずした。貴重品をまとめ、スニーカー玄関に出して。
思ったのは、いざって時に各部屋で眠っているお子をどう守ればいいんだろう、という不安。
運良く家族がリビングにいてくれればいいのだが、就寝中や外出中で気持ちはあっても「咄嗟」が間に合わなかった場合の「私の絶望」について考えてしまった。
3.11以降、揺れと私一人で家族を守るというあの緊迫が確実に心に深く刺さっていて、似た大きな揺れを感じると勝手に涙が出てくるのだ。
今回もそうだった。
夫は在宅していた、一人の肩にのし掛かってはいない。
なのにニュースの画像や声や緊張が確実にあの日を呼び起こし、気がついたら涙が流れていたから、慌ててテレビを消した。
私の命など喜んで捧げる覚悟はあるし迷いも全くない。お子を夫を守るためなら、むしろウェルカムだ!
問題は実際身を呈して守れる位置に
家族がいる時に遭遇するのか?だと気がついてしまった。
私はお子の小学校の卒業式の出席すら命が持つかわからないと言われていた。
だから下の子がこの春、高校を卒業し大学入学という「決定事項」を知ることが出来た事だけで、十分過ぎるくらいの奇跡なんで。
だからね、いつでも私の命など喜んで家族のために差し出したい。
そのためのシミュレーションを始めた私の頭の中。
by中皮腫患者mochi
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