手術後セカオピを再び受ける事を決めた
- 2020.06.14
- 中皮腫の治療歴
- アスベスト, セカオピ, セカンドオピニオン, 中皮腫, 中皮腫ブログ, 中皮腫患者mochi, 希少がん, 希少がんサバイバー, 希少がんブログ, 手術, 抗がん剤, 腹膜中皮腫

手術から退院までの間、
たくさん歩いたからなのか、たくさん眠ったからなのか、はたまた食欲が旺盛だったからなのか、それはわからないけれど予定より1週間以上早く退院日が決まった。
退院をするのはちょっと不安であったけれどやはり嬉しかった。
しかし、頭の中を占めていたのは「術後の抗がん剤を使用するか否か」だった。
セカンドオピニオンという言葉が
再び頭をよぎりはじめていた。
横隔膜に悪性腫瘍(中皮腫)が4〜5個、手で確認し、取らずに「閉じた」
その腫瘍を「抗がん剤」で叩く、これが先生の提案した治療、ただし専門ではないので術後の経過は婦人科で診るが、今後の治療は腫瘍内科で相談する、そう決まった。
抗がん剤をおこうなうか、それ自体迷い始めてしまったのだ。
悪性腹膜中皮腫とわかってから、
手術・抗がん剤・治験・新薬研究、これら治療の事例のある、病院や大学を検索し(2012年5月時点)、紙に書き出した。
手術の可能性、抗がん剤の奏功率、腹膜中皮腫の治験、これらの有無を聞きたくて、中皮腫の治療の実例のある病院から順に電話で問い合わせた。
親身に他の施設を紹介してくれた所や、研究している教授から「今の時点で体内に腫瘍があるなら、間に合わないから問い合わせても無駄な努力だよ」と聞いたり、
「ふくま…」あ、ウチでは腹膜はなく胸膜です、なんてザラでなかなか心がポキポキと折れまくる作業ではあったけれど、
後日折り返し連絡をくれた施設もあり、勝手に電話したにも関わらず疑問に丁寧に対応して下さり本当に有り難かった。
そこでわかったのは、
手術が最善策、抗がん剤については可能性というスタンス、現段階で新薬はなし、
だから私は手術一択にかけていたが、術後に状況が変わった。だからもう一度セカンドオピニオンを受け、抗がん剤の種類と効果について相談しようと決めた。
まぁ、その辺りについては、こちらをご覧いただければ、と思います。(※ただし2012年5月の話であり情報の鮮度はありませんので、ご参考までに↓※)
そして、自分の意思で「抗がん剤治療をしない」と決めた。
私のがん治療目的は
「私のため」に「子供を優先し」私にしかできない事に命を使いたい。
散々悩み、自分に問いかけ「後悔しないか」と何度も何度も考え抜いたけれど答えは出なかった。
一寸先は闇と言うけれど、ほんの2ヶ月前の私は卵巣嚢腫であることさえ、その先に希少がんと告知を受け、2度手術をする未来など考えもしなかった。
先生すら「抗がん剤治療をするべき、後悔するよと言ってあげたいのだが…」と言葉を濁すのだ、医師でない私に先生以上の未来が読めるはずがない。
だから一つ目標を決めたのだ。
2014年の春までは、たとえ急激な体調の変化があったとしても「恨み節」を「泣き言」を「後悔」を「絶対に口にしない」と自分に約束をした。
2014年の夏頃にはちょっと後悔を口にしても許されるかな?と自分への甘えも残してあげながら(笑)
どの選択をするのが正しいなど誰も言えるわけではない。正しいではなく、ベストをアドバイスする事はできても「絶対」はこの世に存在しないから、まずは心の目標をたてた。
家族の誰かが病気になったら、
肉体的、精神的、金銭的に負荷がかかる。
だからせめて、治療の選択は「自力で完結すべき」と思った。
責任を誰かと分かち合ってはダメだ。それは甘えであり、その誰かの「一生の後悔」になる場合があるから。
私は家族と一緒に過ごす「6週間」を「自己決定」した。たとえその結果、2013年を迎えられなかったとしてもそれで良いと思った。
「ママと一緒に寝るー」そんな年齢の子供の母親として、「私」が「後悔」したくなかった。病院のベットで眠る6週間を、全て我が子へ費やしたかった。
いわば私のわがままだ。
結果論、私は8年目を
生きているが、万が一宣告通りの2年の余命を過ぎなかった場合、
たとえ私の意思だったと知っていても、抗がん剤治療をもっと強く勧めればよかった、そんな後悔を夫は確実にしたであろう。
私の生き方を家族の誰一人も責任を感じず受け入れて欲しい。私は散々夫に伝えてきているから理解してくれているだろうけれど、
念のため、パートナーに必ず伝えておくべきだと思う。
がん告知、きっと下の子だって
「何か」を感じ取っていただろう。ならば上の子はそれ以上だろうから。
「アスベスト、希少がん、中皮腫、腹膜中皮腫、治療、5年生存率、予後、寛解、」
今まで自分には関係ないと思っていた単語たちが突然目の前に現れた衝撃が強すぎて「子供に隠す」なんて余裕は全くなかった。申し訳ないが「私」のことで私が手一杯だった。
家庭の空気がガラッと変わったはず…(よろしければこちらをどうぞ↓)
今後も私のスタンスは変わらず「私のため」に「子供を優先して」生きたい。
子供の進路選択も同じで、
絶対という正解は存在せず、ベストを「アドバイス」する事しかできない。
それは治療の選択も同様。どの道を選ぶのか、それは自分。決めた道を勇気を振り絞り前へ進むのだってやっぱり自分。
誰も代わりに道を歩いてはくれないのだ。
足りないところを補い合えばいい、
それが家族だ。本当にそう思う。けれどそれは一人一人が精一杯自力で頑張る事が前提の話。
とっぷり甘えても許されるのは子供だけ。
親となった夫と私は、互いの役を精一杯走り切る責任がある。だからこそ、夫か私のどちらが欠けても、子供たちが帰ってこれらる場所を用意しておくべきである思っている。
夫は昔から料理をするのが好きで、一人暮らしも長かったから一通りの家事ができる。上の子が生まれてからも「一緒」に子育てをしてきたから「私」の不在を埋める事は大丈夫、可能だ。
「身の回りの世話」「日常生活」「相談できる親」これらを夫は持ち合わせていた。
もし仮に私が2年後亡くなっていた過去を想像するとしよう。きっと子供たちは互いの寂しさを理解しあい協力しながら生活をする「現在」があったはず。
だが「母親」という存在について、
これは「父親」の代わりがいないのと同様に、カバーし切れるものではない。
だから私は「甘えたい盛り」の子供にとっての「母」を出来るだけ濃厚に過ごしたいと思った。
当時の私が精一杯考えて出した答え。
それが唯一「有限の時」を最大限活かす事であり、私しかできない事だと思った。
人生の先が見えてしまったのなら足掻くのはやめよう。
私は子供たちの「母」として「私の命」を全振りしたいと思った。(つくづく毒親育ちは色々大変)
とにかく猶予は2年間。振り返れば母の記憶がある、そう思ってもらえたら嬉しい、それを希望に、私は自分の命の可能性について「答え」を出した。
怖かった、それは本当。
だって抗がん剤が効いて悪性腫瘍(中皮腫)が消える可能性はゼロではない。
失いたくなかった6週間、これも真実。抗がん剤が効かなかった場合の6週間を。
どちらを選んでも修羅なのだ、天秤にかけるのは自分の命。そして正解は死の瞬間までわからない。
死は誰にも平等に訪れ、生まれ方も死に方も自分で選ぶ事はできない。
だけれどゴールテープを見せられたら、やはり自分の「命」を真っ当に自分のために使ってあげたいと思った。
私が幸せと思う事、私が幸せを願う人へ、私の「心」が届けば良いな、と。
やっておけばよかった後悔を
したくなかった。子供たちとゴロゴロ過ごしたり、下の子と一緒に眠る事が「私の一番したいこと」だったから。
2012年4月12日から今日まで、やっぱり私は全速力で今を生きている。
何気ない日常は、私にとってはとてつもなく重要で守りたい日常なのだ。
死に様は生き様、そう教わった。死は平等に訪れる、とも。
だったら私は「私の幸せ」のために走り切ってやろうと思っている。
夫と子供たちが「特別感」を
持たず、私がふぁおんと家にいる当たり前を、1日でも重ねたい。
長生きがしたいわけではない、縁あって私と家族になってくれた大切な人たちの心の安寧を優先したいだけ。
いきなりがんと宣告され、初めはそれこそ死にたくなるほど辛いと思う。
だからこそ「自分の心」「本音の自分」を優先する、これ以外アドバイスできないけれど、
泣いてくれる人がいるという事は、同じように苦しんでくれているはずで、それはやはり感謝なわけで。
そんな人にやっぱり甘える自分がいて、救われる自分がいる。
- がんの治療の目的をはっきりさせる
- 迷ったらまずは、心の目標を決める
- 子供の年齢によっては1週間とはいえ大切な日数
- 現段階の治療に迷ったらセカンドオピニオンを受ける
- 治療の選択は「自力で完結すべき」
- 責任を誰かと分かち合ってはダメ
- その誰かの「一生の後悔」になる場合があるから
- 自分の命だけれど、正解は死の瞬間までわからない
- だからこそ、有限の時を「自分の幸せ」に費やすべき
愛を与えてくれる人たちへ、有限の「私の時間」をどう過ごしたら愛が伝わるのだろうか?
それは今も課題でもあり、幸せな悩みなのだろう。
私の願いは一つ、家族を大切に思いながら「今日」を生きたい。
by 中皮腫患者mochi
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