がんの告知から9年目
- 2020.05.29
- 中皮腫の治療歴
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2012年4月12日、一人で告知を受け、
非常灯を頼りにPET検査の予約をし、会計を済ませた時は19時を過ぎていた記憶。
悪性腹膜中皮腫(あくせいふくまくちゅうひしゅ)という、初めて聞く病名、そしてそれが「がん」だということ、さらに希少がんと呼ばれる、非常に予後の悪い難しいがん。
自分が「がん患者」だと知った衝撃、
しかもアスベストを吸い込むことにより発症するがんと言われた驚き。
アスベストを扱う仕事に就いた事はなく、2020年現在も、どこで吸い込んだのか不明のままである。
初めに自分の心に襲いかかってきた感情は「絶望」
なんで私が?
40を少し過ぎたばかりで「ママと一緒に寝たい」そんな可愛らしい年頃の子どもがいる私が、
アスベスト?中皮腫って何?と混乱した。(まとめをよろしければ→病歴についてご紹介)
元々頭痛と生理痛で
頻繁に痛み止めを服用していたので気にも止めず生活をしていたが、1月と2月の生理が近くなると腰骨の少し上が、北風にあたりカサついた様にヒリヒリすることに気がついた。
今までなかった事だったから婦人科で診てもらった。
結果、子宮筋腫もみられるが卵巣嚢腫が要手術サイズ。こうしている間にもいつ破裂するかわからないから、なるべく早く手術したほうが良い、と診断された。
生理痛とカサつきは卵巣嚢腫だったのかぁ、なんだか納得だった。
その後、総合病院で
腹腔鏡術により卵巣切除術を行なった。その際、腹腔内に「腫瘤」が多数みられ、切り取った卵巣と共に、場所を変え数カ所摘出しそれも病理検査に回してくれた。
4月12日は、迅速診断で良性だった卵巣の詳しい病理結果と、術部の経過を診察する日だった。
悪性の可能性は消えて、境界型と良性が少し気になる程度で、先生は大丈夫って言ってし♪と軽い気持ちで病院へ向かった。
だが予約時間を大幅に過ぎ、
とうとう最後の一人になり、ようやく診察室へ呼ばれ、言われたのが「卵巣は問題ない、本題は…」と、
そしてがんの告知への話となった。
私の年にもなれば、婦人科系含め病気治療経験の話を聞いたりすることもあった…
だがアスベストが原因のがん…とは
何もしなければ2ヶ月、治療して2年、そんな病気にまさか自分が罹患するなど、どんな想像力を働かせれば予測できたのだろう。
あの日気づいたら、14時過ぎの明るかった病院はすっかり夜になっていて、外は猛烈に雨が降りしきり、
私といえば、勝手にボトボト流れる涙を流しっぱなし、でもあたまは何も考えられず、ただただ真っ白だった。
タクシーで帰りマンションの部屋に一歩入った瞬間、獣の様な声で、泣くというより叫ぶ様に枕に向かって「絶望」なのか「悲しみ」なのか、はたまた「怒り」なのかよくわからない、本能が何かを吐き出させるかの様に、絶叫した。
その夜、夫や両親と何を話したのか、子どもたちはどうしていたのか、記憶は今も思い出せない。
卵巣嚢腫、違和感の気づき、
あの僅かな違和感、痛みと関係ない皮膚の擦れに気を止めていなければ、私はいつ婦人科を受診していたのだろう。
手術中の腹腔内の映像を告知時見せてもらったけど、ゴマの袋をうっかり床にブチまけたように、無数に腹腔内に散らばる悪性腫瘍。素人目にもこれ腫瘍(がん)じゃない?って不安になる映像。
卵巣嚢腫の手術の際に一緒に取り出した細胞は「がん細胞」であった。
つまり私の体内にがん細胞があるのがわかったので、PET検査を行った。
でもPET検査ではがんは発見されなかった。
つまり、PET検査で映らない小さなサイズのがん細胞が私のお腹に存在しているが、それは腹腔鏡手術で直接体内を見る機会があったから、
偶然発見されたもの。
生理痛も頭痛も人と比べた事がなかったから普通のことと思ってた。今なら頭痛薬の摂取回数がおかしいとわかるけど…。
健康診断で子宮がん検診、エコーで卵巣も診てもらっていて毎年「異常なし」だったから、健康だと思ってたし。
あの皮膚の擦れを気に留めて病院に行っていなければ、卵巣破裂が先か、腹膜の中皮腫(がん細胞)がお腹を埋め尽くすのが先か…。
この経験から、少しの違和感でも大袈裟だと思われようとも、受診をするのが一番と思う様になった。私の体は健気にサインを出していたんだ。
がん拠点病院への初診予約は
最短の病院で1ヶ月ほど先だったから、その間ひたすらネット検索する日々とる。
引きこもり、未来を悲観し、絶望の中、泣きながら背を丸め、ひたすらPCに向かう毎日。
中皮腫、それだけでも珍しいがん、腹膜はその中でもさらに珍しい。そして5年生存率が数%、サイトを開くたび死の宣告を受けるようで心が折れ過ぎて、死にたくなってくる…
子どものために生きたい、
それを探す目的のはずが、死ぬことを確定され続ける検索結果。
もう、私は生きたいのか死にたいのか感情がよくわからなくなり、うっかり叫び声が出そうになる感情を必死で抑え、自暴自棄になりそうになると、子どもの顔を思い浮かべ、
でも子どもの顔を思い浮かべると、子どもの未来をみることは出来ないと自暴自棄になる、この繰り返し。
あれほどの苦痛は初めてだった。
がんの告知と余命とは、
誰にも当たることのできない憤りやるせなさ、生きる希望を持ちたい、でも捨てれたら楽だろう、そんな風に心が揺れ動く、
荒波に放り出された木の小舟、そう補陀落渡海に出る僧はこんな気持ちで船の中でお経を唱え続けたのだろうか?と、ふと僧の気持ちがわかった様な気がした。
死にたい程に辛い現実が目の前にあって…、それは生きていたからであって、死ぬのは怖い。
検索している今もがん細胞は増えているんじゃないかという恐怖と、がん細胞の好きにさせるくらいなら、自暴自棄になり荒波へ飛び込んで消えてしまいたい自分。
でも本能は子供たちを放っておけないとブレーキをかけてくれる不思議。
だからこそ、虚な目で、
死の確率ばかりの情報の中から、他の希少がんや、腹膜がんなど、同じ部位にできる他のがんにどの様な治療の選択があるのか、そこに助かる望みがあるのだろうか?検索を続けた。
やはり手術がしたい、がん細胞を切り取ってほしい、自分の希望を絞り込んだ。
1つ目のがん拠点病院では、
手術の可能性の判断は、再度細胞を採取し、中皮腫の確定診断をしてからと言われた。結果が出るのは早くて半年なので、腹膜がんに使用する抗がん剤で先に治療を始め、結果次第で手術の有無を決めましょうと言われた。
2つ目のがん拠点病院では、
確定診断を待たず、映像と病理診断でがん細胞とわかっているから、手術しちゃいましょう、と初診日に約2週間後の手術をねじ込んでくれた。
光が差した。
私の体の予定が決まった。
家族への準備をしよう。
前回の入院(卵巣嚢腫術)は、エクセルで子供たちと私の退院までのスケジュールのカレンダーを作った。
今回は1ヶ月の入院なので、夫や実母が見やすい様、子どもの習い事の持ち物や、月曜朝に学校へ持たせるもの等も書き加えた。
病院名がひらがなで「がん」と付いているので、病名を伝えていない下の子のため、お見舞いには大人のみにしてもらった。
当時はスマホが当たり前の時代ではなかったので、家のPCにマイクとカメラを設置し、入院中の私のiPhoneと家のPCをスカイプで繋ぎ、毎日顔を見て話せる準備をした。
今もなお横隔膜に残る
4〜5個のがん細胞。
今は幸運にも家族と過ごせているけれど、残っているのは事実であって、再びあの衝撃がやってくる未来があるそて、その時私は冷静でいられるだろうか。
だからね、一度ちゃんと、あの時どう思い、どう動き、どう心が変化して行ったのか、きちんと心を整理したい。のちに大波に再び小舟で出る必要がるかもしれないから、一旦ここで振り返り、告知の衝撃というトラウマを処理しようと思う。
当時まだ子どもだった上の子は、
大学生となりました。自分の夢を叶えるための巣立ちに立ち会うことが出来ました(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)♡
あの頃の私は、あの子が大学生になった姿を見られる未来がやってくるなんて全く想像しなかった。私を救ってくださった先生方に本当に感謝しかありません。ありがとうございます。
- 体のわずかな変化を見過ごさず病院へ行こう
- がんと告知されたら誰でも絶望の淵に立たされるのは自然な感情
- 強がらず、思い切り泣き叫んで構わない、感情を無理に抑え込まない
- 悲しみ衝撃が落ち着いたら、次は自分のために病気の情報を集めよう
- 自分の希望の治療の順番を考えておくと先生とスムースに話せる
- 初診を予約するのは一つの病院だけでなくて良い(これ大事)
by 中皮腫患者mochi
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