がんの告知から9年目

がんの告知から9年目

非常灯を頼りにPET検査の予約をし、会計を済ませた時は19時を過ぎていた記憶。

悪性腹膜中皮腫(あくせいふくまくちゅうひしゅ)という、初めて聞く病名、そしてそれが「がん」だということ、さらに希少がんと呼ばれる、非常に予後の悪い難しいがん。

自分が「がん患者」だと知った衝撃、

しかもアスベストを吸い込むことにより発症するがんと言われた驚き。

アスベストを扱う仕事に就いた事はなく、2020年現在も、どこで吸い込んだのか不明のままである。

初めに自分の心に襲いかかってきた感情は「絶望」

なんで私が?

40を少し過ぎたばかりで「ママと一緒に寝たい」そんな可愛らしい年頃の子どもがいる私が、

アスベスト?中皮腫って何?と混乱した。(こちらにざっとまとめたものがございます。よろしければどうぞ↓)

病歴についてご紹介

元々頭痛と生理痛で

頻繁に痛み止めを服用していたので気にも止めず生活をしていたが、1月、2月と生理が近くなると腰骨の少し上が、北風にあたりカサついた様にヒリヒリすることに気がついた。

念のため、婦人科を受信したところ、子宮筋腫もみられるが、卵巣嚢腫が要手術、しかもなるべく早く、こうしている間にもいつ破裂するかわからない、そう診断された。

生理痛とカサつきは卵巣嚢腫だったのか、納得した思いだった。

その後、総合病院で

腹腔鏡術により卵巣切除術を行なった。その際、腹腔内に「腫瘤」が多数みられ、切り取った卵巣と共に、場所を変え数カ所摘出しそれも病理検査に回してくれた。

4月12日は、迅速診断では良性だった卵巣の詳しい病理結果と、術部の経過を診察する日だった。

だから私の頭では、悪性の可能性は消えたが、境界型と良性、そのあたりが少し気になる程度、軽い気持ちで病院へ向かったのだ。

だが予約時間を大幅に過ぎ、

とうとう最後の一人になり、ようやく診察室へ呼ばれ、言われたのが「卵巣は問題ない、本題は…」と、

そしてがんの告知への話となった。

婦人科系の病気なら、私の年にもなれば数人手術した人も投薬治療している人も知っていた。初期の乳がんや子宮頸癌も…

だが、アスベストが原因のがん…、

何もしなければ2ヶ月治療して2年、そんな病気にまさか自分が罹患するなど、どんな想像力を働かせれば予測できたのだろうか。

私はあの日、すっかり夜になり雨が降り頻る中、涙が滝の様に流れるけれど、あたまの中は空白だった気がする。ショックが大き過ぎたのだろう。

その日、自宅マンションに一人帰り、獣の様な声で、泣くというより叫ぶ様に枕に向かって「絶望」なのか「悲しみ」なのか、はたまた「怒り」なのかよくわからないが、本能が何かを吐き出させるかの様に、絶叫した

その夜、夫や両親と何をどう話したのか、子どもたちはどうしていたのか、その記憶がはなく、今も思い出せない。きっとそれほどの衝撃だったのだろう。

卵巣嚢腫の手術にしても、

あの僅かな違和感を、ともすれば痛みとは関係ない皮膚の擦れに気を止めていなければ、私は婦人科を受診するのが遅かっただろう

腹腔内の映像を見せてもらったが、ゴマの袋をうっかり床にブチまけてしまったように、無数に腹腔内に巣食う悪性腫瘍。素人目にも、これ腫瘍じゃない?そうわかる映像。

体内にがん細胞があるのがわかったから、詳しくPET検査をしたのだが、PETでみる限り、私の体内のがん細胞は零であった。

つまり、PET検査でさえ映らないほど小さなサイズの無数のがん細胞が私の体内に存在し、それは腹腔鏡手術を行った結果、たまたま体内を直にレンズでみることができたため、偶然発見されたもの。

というのも、頭痛も生理痛も

10代の頃から変わらない。健康診断も毎年受け、子宮がん検診も、エコーで卵巣も診てもらっていたから、あの皮膚の擦れを気に留めなければ、

卵巣が破裂するのが先か、腹膜の中皮腫(がん細胞)がお腹を埋め尽くすのが先か、わからなかっただろう。

この経験から、少しの違和感でも、大袈裟だと思われようとも、とにかく受診をするのが一番、そう思う様になった。体は健気にサインを出していたんだろうから。

がん拠点病院への初診予約が

1ヶ月ほど先だったので、その間ひたすらネット検索する日々となった。

引きこもり、未来を悲観し、絶望の中、泣きながら背を丸め、ひたすらPCに向かう毎日

中皮腫、それだけでも珍しいがん、腹膜はその中でもさらに珍しい。そして5年生存率が数%、サイトを開くたび死の宣告をされるのだ。心が折れ過ぎて、死にたくなってくる。

子どものために生きたい

それを探す目的のはずが、死ぬことを確定され続ける検索結果

もう、私は生きたいのか死にたいのか感情がよくわからなくなり、度々叫び出したくなる気持ちを必死で抑え、自暴自棄になりそうになると、子どもの顔を思い浮かべ、

それでも子どもの顔を思い浮かべると、未来をみることが出来ないと自暴自棄になり、

あれほど最大の苦痛の日々を過ごした事はないだろう。

がんの告知と余命とは、

どこにも当たることのできない憤り、やるせなさ、生きる希望を持ちたくて、でも捨てたら楽だろう、そんな風に揺れ動く、

荒波に放り出された木の小舟、そう補陀落渡海に出る僧はこんな気持ちで船の中でお経を唱え続けたのだろうか?気持ちがわかった様な気がしてしまった

そう、死にたい程に辛い現実、だけど死ぬのは怖い、がん細胞の好きにさせるくらいなら、自暴自棄になり荒波へ飛び込んで消えてしまいたい、と。

それでも母親として、無責任に子供たちを放って世を去ることを、本能がブレーキをかけてくれた

だからこそ、虚な目で、

死の確率ばかりの情報の中から、他の希少がんや、腹膜がんなど、同じ部位にできるがんはどの様な治療の選択があるのか、

そして、そこに助かる望みがあるのだろうか?それを探すため検索をし続けた。

やはり手術がしたい、がん細胞を切り取ってほしい。それが微かな希望、そこまでは自分の希望を絞り込んだ

1つ目のがん拠点病院では、

手術の可能性の判断の前に、中皮腫の確定診断をしてからだと言われた。結果が出るのが早くて半年、なので腹膜がんに使用する抗がん剤で先に治療を始めましょう、と言われた。

2つ目のがん拠点病院で、確定診断を待たず、映像を見ればがん細胞があるのがわかっているのだから、手術しちゃいましょう、と初診日に約2週間後の手術をねじ込んでくれた。

光が差した。

予定が決まったら次は家族たちの準備だ。

前回卵巣嚢腫樹の入院の際、エクセルでカレンダーを作成し、一目で子供たちと私の退院までのスケジュールがわかる様にしていたが、

今回は1ヶ月の入院とのことで、そのカレンダーにさらに夫や母が見やすい様、習い事の持ち物や、月曜日に学校へ持たせるもの、そういった欄を加え修正した。

病院にひらがなで「がん」と書いてあるので、病名を伝えていない下の子のために、お見舞いには大人しか来ない様にしてもらった。

当時はスマホが当たり前の時代ではなかったので、家のPC用にマイクとカメラを購入し、入院中の私のiPhoneと家のPCをスカイプで繋ぎ、毎日顔を見て話せる準備をした。

今日は取り止めもなく、時系列を綴ってしまったが、なぜ再びがんと向き合おうと思ったのか。

それは次にくる衝撃に備えたいから。

今もなお横隔膜に残る

4、5個のがん細胞がどう変化するのか、再び宣告を受ける時がきたら、私は冷静でいられるのだろうか。

だからこそもう一度、あの時どう思い、どう動き、どう心が変化して行ったのか、これをきちんと整理したい。

のちに来るであろう大波に、再び小舟で出るために、一旦ここで振り返りまとめようと思った。

当時まだ子どもだった上の子が、

大学生となり、少し遠いところへ、自分の夢を叶えるため、昨日巣立ちました。

あの頃は、大学生になる姿を見られるとは全く想像しなかった未来。私を救ってくださった先生方に心より感謝しております。

がん患者となり経験した事のなかで、やっておいてよかったな、と思う行動をまとめていこうと思っております。少しでもどなたかの参考になれば幸いです。

  • 体のわずかな変化も見過ごさず病院へ行くこと
  • がんと告知されたら誰でも絶望の淵に立たされるのは自然なこと
  • 強がらず、思い切り泣き叫んで構わない、感情を無理に抑え込まないこと
  • 病気の情報を集め、自分の希望順の治療を考えておくこと
  • 初診を予約するのは一つの病院だけでなくて良いこと

by 中皮腫患者mochi